セラピールーム耀 よう

心身を調節し統合するセラピー

私を育てた信仰からの脱却と再帰

2020年5月23日 by Posted in: セラピー


自分を守ってくれる家庭がないと思い込んでいたことと、蓄膿症の病から、20年以上にわたりある療法を信奉してきた。最初、その療法は私にとって実行するのが難しかったが、長年の辛抱の犠牲により、信ずる生活態度を確立することができていった。親にかわるべき先生が、特別目をかけてくれていると潜在的に思っていた。15年前の、首の弛緩からくる全身の不調から、だまされたという思いが敵意に変わっていった。首を弛緩したのは、療法の一つとしてあっただけで、先生から実行しろと言われたわけではない。そう思うのは正しくないと頭でわかりながら、恨みを抱くのは辛かった。

その誤解がロロメイ博士の「失われし自我をもとめて」1970を読んで融解した。

世話をしてもらいたいという幼児の欲求は、成人しても残ることが多い。とりわけ宗教を信仰している人にとって強い。生涯をかけて何かをやりたいという並々ならぬ熱意をもつことが、信仰のプラスの側面である。また、そのような人は、「世話してもらう特別な神聖権」というような態度をとりがちである。神があなたを見ていて下さると教えられてきた。神に面倒をみてもらいたいという欲求は、その欲求が阻止されると、ただちに敵意が現れる。そのような人は多くのものを断念しなければならなかった。道徳的判断を下す力や権利も親にゆずらねばならなかった。治療家とか神のごとき親に代わるべきものが、特別目をかけてやらないと、だまされていることになる。

私は、母と別れた父親を先生に投影し、身体が不調になったことで先生と療法に敵意を抱いてきた。全く同じ構造がおこることをロロメイ博士に教えられた。人類共通のものがあるとわかったとき、私は苦しさから開放された。


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