熊谷晋一朗さんの講演を聞いた。(*)と編集後記以外は熊谷氏の講演の要約です。
熊谷氏は、脳性麻痺で四肢に障害のある車椅子を使用している東大卒の医者である。熊谷氏は障害の啓蒙活動として、地域の小学校に出かけていく。車椅子に座っている男の子と、その横に階段の絵を書き、障害はどこにあるかを聞く。こどもたちは、階段が障害であるといったり、足が障害であると答えてくれる。そのワークは、障害は男の子の身体にあるか、外の環境にあるかを、はっきり知ってもらうためである。
熊谷氏は続ける。impairment は、障害を医学モデルであらわしたものである。disabilityは社会モデルで表したものである。環境の中にも個人の中にもない。個人と環境の関係の中にあるものである。当事者と環境の相性の悪さを表したものである。環境の中にあるものは、バリア(障壁)である。
障害の社会モデルは、障害の医学モデルを否定するが、医学は否定しない。骨折や肺炎は、誰にとっても早く治癒したほうがいいものだ。医学モデルは、impairmentを減らしたい。社会モデルはdisabilityを減らしたい。社会モデルは、impairmentもdisabilityのどちらも否定しない。しかし障害に対しその割合は、厳しく査定する。個人のimpairmentをどれだけ減らせるかは可変性がある。熊谷氏にとっては、リハビリをしても歩けるようにはならなかった。環境を変えるにも限界があり、あらゆる環境をフリーにはできない。医学モデルは、環境を変えない、100%個人の問題であるとするが、人権、コストの面でも誰も合意できない。
(*日本語では障害として一つの言葉であるが、ICIDHの概念では、障害は、impairment disability handicap と3つに分類され、医療モデルであった。 脳卒中を例にだすとimpairmentとは麻痺そのものであり、 disabilityとは麻痺によって損なわれるADL動作のことであり、handicap とは身体が以前の通り動けなくなり会社を退職したり、社会参加が妨げられることである。2001年のICFモデルで、社会モデルが定義された。)
障害の当事者研究があるが、今まで科学とは無縁と考えられてきたが、ネイチャーが10月号でcoproductionの特集を組んだ。why not? But how . (どうするの、でも当事者にはいろんな意見があるし)イギリスには医療のユーザー、教育のユーザーという消費者立場の言葉がある。
熊谷氏は、障害をもつ当事者でもあるし医師である研究者でもある。2つの帽子をもっておくのはよいが、同時にかぶるなと言われている。それは薬物依存症の人たちであるが、仲間の回復を遅らせるという意見である。
自己決定の原理として、自立生活をする身体障害者の多くは、介助者の良かれと思ってやる先回り行為を批判する。確認せずに手をだすことは、自己決定の権利に反するからだ。つまり介助者は文字通り被介助者の手足になるべきであるいうわけである。
熊谷氏は、たくさんの介助者の介助を受けてきた。少しは自分で着替えもやらないと、使えなくなりますよと言われたこともある。そしたら、あなたは、食べるものを全て作っていますが、着る素材を作っていますかと聞きかえす。人類は相互依存して分業制度を発展させてきた。人類はできない方、弱い法へ進化してきている。障害者にできる事は自分でしましょうという論理は、人間が素手でサバンナで生きろという論理と同じだ。サバンナの論理を押し付けるなといいたい。
熊谷氏が入浴介助を依頼したとき、ひとりの若者がどこから脱がすのか指示がないとできないという。裸になったらどこから洗うのか一々確認をとる。腕のどこか、肩からか手か、手ならば何指で、表か裏か、際限がない確認となる。
熊谷氏は、はたとある一定のラインのあることに気づいた、その線引きが、シャワーをして早く出かけたいである。介助者は、いつシャワーに入るかだけを確認してほしい、それ以下のことは適宜に任せたいのた。
ベルシュタイン問題で、脳は全ての筋肉に指令を出すわけではない。自動化されて身体は動くのだ。Coordination structure 協応構造という。それと同じことなんだと気づいた。
ある自閉症の人たちは、ある外乱でパターンがすぐに崩れる。くずれないようにこだわりが強い。自己決定の平均ラインが、下の方にあるのだ。皮膚の過敏性は解決しないといけない問題ではない。当事者と介助者の協応するラインである。それを身体外の協応構造という。障害によっても、また個人によっても異なるのだ。
編集後記
身体外協応構造が障害によってことなるし、またそのとき、早くでかけたいときも、じっくり聞いて向かい合ってほいいときもある。散髪屋さんで、洗髪するときに、かゆいところを確認するのを、もういいからと思うのと同じだ。ラインをどこに引き生活するかというのは、個人における差別意識とも通じる問題でもある。
私が、人と接する時に、私は人間としての価値があるかどうかクライアントに見られているのを気にする恐怖があると、話していた。そのとき、あなたがそれにこだわるのは、人間としての価値を全ての人に見ていない裏返しではないのかと問われた経験がある。
浮浪者に人間的価値を認めているか。関心がないのは、認めていないこと。浮浪者には、寒さをしのぐ知恵、食べ物を調達し生存する知恵があり、普通の人では恐くてできないことをする勇気ある人ではないか。
低所得者に人間的価値を認めているか。勤労意欲があってもたまたまリストラされ職がない人もいる、組織に所属せず自由に生きる人の価値を認めているのか。
あなたは、知らず知らずの中に、人間としての価値のラインを上げていたのではないか。
生きている全ての人に価値があるはずなのに、無視しそれを見ないで関心を寄せない。頭の片隅にでもそのような意識があると、全てのクライアントの価値を同一にみることができない。関心のあるのは、自分のクライアントのある種の見えている問題だけというのは、ラインをどこに引くかから始まる。
あまりに狭く捉えすぎることに対し、当事者研究がラインを引きなおせと欲求している。
介助者と被介助者、セラピストとクライアントの関係は、他人として評価し客観する対象なんだけど、客観のラインを主観のラインの間に引きなおすことを問われているのだと想う。介助者もセラピストも、主観と客観の間から相手に近づこうとする態度が欲求されている。