欲求不満
やる気はあるのに、どうしたらいいかわからない。自分自身にた綱が上手くひけない状態である。
欲求不満の原因は、欲求を区分けができていないからである。欲求には3つの区分がある。皆のためにつくしたいというスーパーエゴ(超自我)と自分の楽しみの欲求を満たしたいエゴ(自我)と、食事、睡眠、排泄などの生きるエネルギーを満たすイド(エス)である。
どのレベルで満たされてない不満なのか、知ることである。大雑把に一緒にして捉えていると、不満足の原因がわからないので、欲求不満となる。
欲求を区分してみよう。食事、睡眠、排泄は生きるためのイド。深呼吸したり笑うことはイドで楽しい会話はエゴ。旅行にいって楽しむのはエゴ、職場のために仕事内容を整理してマニュアルを作りたいという欲求は、スーパーエゴ。職場を去る前に何かを遺したい、名誉を求めるのは、エゴでありスーパーエゴ。
また振り子の両極を知ると進むべき道に迷いがない。ただし極に分けれないものを知ることも重要である。失敗を謝ったけど、許してくれるだとうかと推測するのは、極ではない。謝るの反対は謝らないからである。
極に分ける練習もしてみよう。貧乏の反対は裕福。健康の反対は病気。光の反対は闇と音。走るの反対は、歩くとゆっくり進む。動くの反対は止まる。
争いの反対は和む。対立の反対は親和。冷たいの反対は熱いと暖かい。泣くの反対、うれしいから泣くの反対は悲しい、悲しいから泣くの反対は笑う。怒るの反対は喜ぶ。怖いの反対は怖くない。さみしいの反対はさみしくない。
もしイベントでも商売であっても、お客が集まらず、計画に満たない問題があるとしよう。計画を実行するの反対は、計画を中止するである。極はこの2つ。イベントを成功させるのは、私にとってエゴとスーパーエゴとを満たすことである。内容を吟味し、期日まで宣伝をして申し込みを待つことにしましょう。一定に達しないなら今回は、半日開催に縮小して、次回にむけて徐々に内容や案内方法をを改善していきましょう。このような明確な方法が導け提案できるので、欲求不満はない。
悩みの解決法 承認できない自己を承認する 思考から感情へ、感情から思考へ
自分で自分を承認できないと、自信のなさから敵対心から他人と争いしんどくなる。また自己卑下して反省したり自分を諦めたりする。諦めるのは、こだわりや苦しみからの開放になると経験から思っていたが、それよりよい解決がある。承認できない自己を承認する解決法がある。
認められない部分を素敵だと思えるようにするには、そのパーツを書き換えるか、行動を増やすか、または要らないものを減らすかである。
自分の都合で他人に嘘をつくのが許せません。それは他人への配慮だとパーツを書き換えると承認できる。
自分の貧乏が承認できません。稼ぐには労働の日時を増やせばいいじゃないか。
他人のおしゃれを見ると腹がたつんです。社交界やパーティーに行かなかったらいいのじゃないの。行きたくないところに行かないと決断したら、他人と比較して腹が立つ自分を楽しめる。
調子がわるいと、また病気になりそうで恐くて自分に怯えます。健康の対極は病気である。病気になり入院すると免罪符が与えられ食事も作ってもらえる。だからまた肺病になるのも悪くない。
ぎっくり腰で仕事に行けない、立派なサポータージュの理由ができたじゃないか。
病気になって死んだらどうなる。苦労の耐えないこの世からの上がりである。やっと開放された。
頸を痛めてから腕がしびれる、腰も膝も痛くなり、セラピスト、プロとして情けない。若いときなら力任せでやれたけど、今は経験で体を使える、心は全力で、体は知恵を使えるじゃないか。
血行不良で手が冷たいからプロとして情けない。本当にそうなら、手ぬぐいや手袋を使用する配慮をしたら喜ばれる。
受験に失敗したらどうしよう。失敗しても笑えるようになろう。本気でやっていて目標がなくなっても、その失敗を笑えるようになると楽しい。失敗したことのない奴っていやな奴だよ、友達になりたくないよ。
資格試験に落ちたらとパニックになるより、勉強が趣味なんですよ、変わってるでしょうと言おう。
上がり症でパニックになり、他人と上手く話せないんです。ちょっと変なんですけど、こんな人間なんですよ。これは自己承認の表現です。
3勝17敗のどこかのチームの監督。負けて下向くなよ、こんなときこそ、一勝で大喜びして下さい。負けてばかりの人の模範になるよ。大喜びして怒られたらどうしよう。戦争してる国もあるんだよ、全敗したら呆れて笑うけど怒らないよ。金メダルかじって皆に怒られてた市長さん、バッシングされて悲しがるのはまた素敵だ。
未来のための今ではなく、今のための今
先々のことばかり考えて、現在を落ち着いて取り組めてない生き方がある。
その原因は、学童期に父母が離婚して、将来がとてつもなく不安になり未来を心配し、現在に基軸をおけないからであると指摘を受けた。
今の積み重ねが未来であるのは知っているが、体験からくるトラウマがある。
私は、当時6年、父と母との関係は、完璧に自分のできることはなく無力でああると思っていたが、その想いを父母にぶつけ、自分の心情を形成している過去を書き換えることができる。
そのための父母に自分の想いを伝えるワークをした。
父が出て行ったこの現状を、俺にきちんと説明してくれと母に伝えた。
くやしかった心情をこぶしで座布団に叩きつけながら懇願した。
母はもう父が帰ってこない、違う女性と生活を始めたことを説明してくれた。
俺は納得できない、父を呼んで説明することを求めた。
父は、謝りながら事実を説明してくれた。
俺は抵抗した。あんな女性と別れて、また家族で一緒に暮らそうよ。
キャッチボールもして楽しかったじゃないか。俺にも責任あるのなら、改めるから、帰ってきてよ。
座布団を叩きながら、懇願した。
父と母の謝罪により、事実を受けいれるしかないことを認めざるを得なかった。
離婚してもお前の父である。いつでも会える。会社に電話してこいと父は話した。
わかった、そしたら、毎月第一日曜日は駅で待ち合わせて、いろんな話をしたり、キャッチボールをしに出かような。男と男の約束やで。
2年後父との再会の場面で。お父さん、お母さんが引越しすると言うてるの。俺は、引越しなんてしたくないねん。3人で話をして俺の事情も聞いてよ。
わかった、その場を設けるぞ。
お母さんが、離婚したから環境変えたいのはわかった。俺が反抗してるから、学校で評判の悪い友達と引き離したいやろ。でもな、お父さんが出て出いって友達まで無くなったら、俺は耐えられへんねん。。T君は、そんなやつと違うねん。男気があるええやつやねん。俺な来年中3や、高校も行きたいし、引越しは学校が決まってからでよくないか。T君と同じ高校にいきたいわけやない、彼と時々会える距離の町にしてよ、南は遠くていやだ。
俺な、反抗しているわけじゃないねん。毎日いらいらしてるだけなんや。熱中できるのがあれば、その気持ちを忘れるからそれを探したいや。家出したいくらいやったし、それなら一人で頑張れる全寮制の高校もええと思っているだ、お父さんお金を出してくれるか。
よしわかった、私がなんとかする。
俺の本当の心情と欲求を伝え、父母は俺のことを一番に考えてくれて納得と満足が残った。
感染症予防のマスクではなく、仮面のマスクの話である。
外から見られたいように、表情や化粧で顔を装う。化粧のきちっとしている芸能人は、私を見てくださいオーラが凄くわかりやすい。何かを装っていることが、マスクの本態である。
善人のマスクをかぶり、どんな依頼も引き受ける人を想像してみよう。ごはん作ってね、片付けといてね、私たち遊びにいくからね、後はよろしく。絶対に断らないで、笑顔で了解する。中はストレス一杯でそれをシャドーと言う。いつも私ばかりにさせやがって、あいつら悪魔だ、恩を仇でかえしやがって。その破壊のストレスはどんどん膨らむパンパンになる。それが、外に向かうと、突然の攻撃や暴力、内に向かう自己破壊となる。善人のマスクが破壊につながることがある。
強面の政治家。俺にとっては、これぐらいは何の問題でもない、こんな問題は塵みたいなものだ。にっこり微笑み剛腕を装う。マスクはコンプレックスの裏返しであることも多い。子どものころ裕福だったけど仲間はずれにされて、いじめられた。幼少期に、貧困や差別をうけたコンプレックスは、お金や女、権力へのこだわりになるであろう。どんなストレスがあるか想像する。あいつら許さんぞ。俺だけは、海千山千のこの世界で一人生き残ってやるぞ。信用できる人が回りにいない孤独。
いつも笑顔で有能を装い、いつも忙しいと言って走り回る先生や福祉職員。私は有能なんです、完璧なんですというマスク。幼少期、忙しくしていたら褒められたからパターン化しその行動しかできない。その人のストレスは、こんなに懸命にしているのに、回りは問題ばっかり持ってきて攻め立てやがって。教育や福祉の世界で尽くそうと思って入職したけどもう限界だ、相手に依存しながら攻撃し、それも破壊に繋がる。
マスクもストレスも、早く取らないと、大変なことになる。他人を援助するには、どんなマスクを被っているかを伺い、マスクを外しやすく浮かせることを考慮する。
マスクをかぶってない子どもみたいな人もいるし、対人をゆっくり観察してみるのもおもしろい。
演芸図鑑で内藤剛志さんが台本の覚え方を話していた。実際にある場所から、10個の場所に分けて、その絵の中に、覚えたいものを入れていく。絵で思い浮かべると、思い出す順番を間違えない。
並べたトランプを全て記憶する方法であると内藤さんも本から学んだそうだ。
内藤さんの話は、説得力があったので、私も試してみることにした。公認心理師試験のために、心理検査を覚えたい。しかし検査名は、英語の頭文字が多くて、名前と目的、作者が覚えられなくて頭が痛くなり疲弊していた。場所に埋め込んだ名前を思い出すことを繰り返すと、その場所と名前が記憶できた。俺は頭が悪いと諦めていたが、少し自信がついた。名前を分解したり、合わないものをくっつけたり、イメージのファイルに記入して分けて置いたり、書いて手で覚えたりするなど、いろんな方法がある。自分なりに組み合わせて記銘、想起することに使用していこうと思う。
コロナ禍も2年になりマスクと自粛生活も慣れてきましたが、皆様は、今年はどんな年でしたでしょうか。振り返りの時間をとるのも大事です。私の今年度良かったのは、足底板を作成して足が楽になる、母親の入所施設が決まり安心する、こどもの就職先が決まるなどです。ブログを続けられたのもよかったです。苦労したことは、コロナでなかったが気管支炎のような風邪を引き二ヵ月ぐらいしんどかったこと、歯がうずき神経が壊死していて治療が後れたこと、スマホのだましにあい、パニくったことなどです。苦労したことの中にも、新しい発見があり少し成長を得たかと思います。また年末は、いたましい事件も多くショックもありました。
いろいろお世話になりありがとうございました。よいお年をお迎えください。
虫歯の治療で、神経近くまで削られて、麻酔がきれたら歯が痛んだ。神経の近くまで削ったので、もしかしたら痛みがでるかもしれません、その時はすぐに連絡してくださいという案内がなかった。こちらか電話して翌週に行くと、薬で処置してくれて痛みは少し和らいだ、これで良くならなかったら、MTAセメント療法で神経を残す治療をしましょうと言われた。なんとなくずきずきする痛みは残って、また1週間我慢した。不信感が芽生えた。歯科を変えた、詰物と歯の間に空洞ができていて、細菌感染して神経が壊死していますと言われた。40代の先生による十分な説明とインフォームドコンセントがあった。神経を削除する治療を何十年ぶりにして、右歯で食事ができるようになった。我慢した俺が悪かった。
70過ぎの女医先生に固執しすぎた。技術を信頼して20年、クリーニングや治療に通ったけど、年齢を考えると当然目も衰えるし技術も落ちる。俺は女医先生に母親を投影していて離れられなかったのかもしれない。
今回、学んだこと。歯の痛みは我慢してはいけない。一人の先生に固執してはいけない。私には合ってないと思ったら、見切りをつける決断は早いほうがよい。
17年前、頸が痛くて、温めたり冷やしたりする七掛け湿布で、頸を弛緩させて骨格がゆるみ、体を故障させてしまった。
自分で間違った健康法の選択をした。師にそうしろといわれてやったわけではないが、朝、
腕がしびれる度に昔の師を恨んだ。ちゃんと禁忌を載せておいてくれよ。
受けた恩は、たくさんあり感謝しないといけないと思うのに、ばかやろーと叫ぶ自分が辛かった。針のむしろというのかな。
大きな血管があるところは、注意がいったし、自分の肌肉の状態を知らずにいた。
学び損ねた健康法をしっかり学び直す決心がつくと、恨みは消え、私の辛さは解消された。
人生の課題と役割り
だれもが、その時の人生における課題と役割りをもつ。
私の今の人生の課題は、スーパーエゴの領域において、物理的なものと精神的なものを分け
て、しっかりと確立することである。今の人生の役割りは、話したいことをして意見を言っ
て、相手はどう思うか、私と相手の境界線を確立することである。全ての人が同じ方向を向
かなくてよいということを理解しよう。
古典的占星術によれば、人生の目的(課題)は、未知の領域を探求することを最後まで続け
ることである。12ハウスの領域である。フロンティア精神で、新しい領域をきり開いてい
く。人生において他人には苦労とも思えるチャレンジや体験が、精神的に大きな開拓を与え
る。気をつけないといけないのは、チャレンジは、引っちゃらかすことではない、形になる
ように統合することである。
皮膚の外と内でおこること
皮膚の外でおこることとは、風が吹いているとか、相手のしぐさとか、そんなことに気づいているかということ。
皮膚の内でおこることとは、自分の内界でのことで、熱いのか、寒いのか、外でおこったことに対して自分はどのように感じているのか、感覚の他、腹がたつ、おちょくられている、逃げたいなとかの自己の感覚である。
何故、それを自分は感じたのだろう。外胚葉、中胚葉、内胚葉を全部使うと深い言語になる。
感覚も研ぎ澄まされるし、表面じゃなく相手の意図も感じ取れる、別の世界に連れて行ってくれるので、刺激を外に求めなくても退屈しなくなる。
例えば、散歩していて、無風、熱くてどんよりした空気。
汗をかく、しかし案外、足は気持ちいいな、1時間を楽に歩けたらたらうれしいな、足は回復しているな。歩くみたいな単調な運動もいいな。どっか痛いとそればっかりに気持ちとられるけど、交互に足がでるって自信になるんだな。
地面を感じるのは、楽しい作業、一回痛めたり、病気になると、感謝できるっていうけど、その通りだな。痛みというのは、マイナスで悪ということではないんだ。
他日
娘のたあに中古車を共に見に行きたかったけど、あいつに気持ちがないなら、私が空回りしてもしょーがない。見に行かないことにする。
しかし、どうしても中古車を見たい、運転をさせてもらいたいという衝動が押さえきれなくて、行動に移す。車も運転し高速を飛ばして行ったのに、娘は白は好まないと連絡を受けた。購入にいたらなかったけど、帰りの車のなかで、深い満足を得ることができすっきりする。
なんで、娘の車でこんな衝動がおきるのだろう。なにも助けてやれないから、つれなくされても、一緒の目標に取り組みたいだけなのかな。時々おこる車の衝動はどこからくるのかな。
幼稚園の時に、おやじが会社の車借りてきて、乗せてくれたよな。幸せな記憶と繋がっている。
33年前に親父が倒れたとき、奥さんに親父が乗っていたチェイサーが欲しいと言えなかったな。
私は、車のシートと背中で親父を感じれるから、何か用事を作って運転したいんだ。
親父と娘て、全く違うのに、こどもは親父の俺を求めていないのに、ばかだな俺は。